もう40年も前から馴染んでいるベルグソンが83年前の1928年にノーベル賞を受賞していたのを3日前にはじめて知った。そうだったのかという気持ちを持つとともに、なんだかベルグソンの思考が俗化されていたようでちょっと残念だった。彼が生前に残した最後の論文集とも言うべき「思想と動くもの」を読んでいると、現在のホットな話題である科学者の社会的責任や教育について既に83年前にきちんと指摘している。われわれはもっと冷静に考えなければならない。以下岩波文庫河野与一訳から引用。
「普通、人が困難な点について専門違いの人に意見を求めにくるのは、それらの人がまったく別の事がらに関する専門によって名声を得ているからである。こうして人は、事物を研究したことがなくても事物を認識することのできる普遍的な能力、単に社会生活に有利な概念を会話において操る習慣でもなく精神の数学的機能でもなく社会的な幾つかの概念をたがいに器用にもしくは不器用に結合して事象的なものの認識を得るというある能力にすぎない「悟性」が実在するという思想を、これらのいわゆる専門家に対して褒めあげ殊に民衆の心に確信させる。この優秀な手際が、精神の優秀性をなすものとなる。ところが、真の優秀性はいっそう大きな注意の力にほかならない。この注意は必然的に特殊化し、言い換えると本性もしくは習慣によって、ほかの対象よりもむしろある対象へ傾くのである。この注意は直接な視覚、単語のヴェールを突きとおす視覚であり、事物についてあれほど容易にものを言わせるのは、事物に対する無知そのものである。ところが私は、科学的な知識と技術的な専門を主観的な視覚と同様に尊重する。私は、物質的にも精神的にも創造し、事物を工作し自分自身をも工作するのが人間の本質だと信じている。「工作人(ホモファーベル)」というのが私のもちだしている定義である。「叡智人(ホモサピエンス)」(人類)は、工作に対する「工作人」の反省から生じたもので、純粋な悟性にのみ依存する問題を純粋な悟性によって解決するかぎり、同様に尊敬に値するもののように思われる。それらの問題の選択に当たって一人の哲学者が誤ることがあっても、ほかの哲学者がその誤りを訂(ただ)すであろう。二人とも全力を尽くして仕事をする。二人とも、私の感謝驚嘆に値することができよう。「工作人」「叡智人」、この二つはとかく混同されるものであるが、私は両方に頭を下げる。私に反感を起こさせるただ一つのものは「言語人(ホモロクワクス)」であって、それが考えるときもその思考は自分の言葉に対する反省にすぎない。」(125ページ)
「私が真の哲学的方法に目を開かれたのは、内的生活のなかに初めて経験の領域を見出した後、言葉による解決を投げ棄てた日である。その後のあらゆる進歩はこの領域の拡大であった。論理的に結論を延長し自分の研究の範囲を事象的に拡大せずに別の対象に適応することは、人間の精神に自然な傾向であるが、けっしてこれに負けてはならない。哲学が純粋な弁証法すなわち言語のうちに蓄蔵されている要素的な認識をもって形而上学を構成しようという試みである場合には、素朴な態度でそこに屈服する。哲学は、ある事実から引き出したある結論を残りの事実にも適用しうる「一般原理」としてもり立てる際にも、絶えずこれをおこなっている。この哲学のやり方に対して、私の哲学的活動の全部は一つの抗議であった。」(133ページ)
これらの記述を見ていると、彼が主張していたことは周囲の科学者、哲学者すべてから否定され、無視されていたという印象を持つ。現在100年近くたってもこの単純なことはおそらく大方の科学者、哲学者から否定され続けるのだろう。プラトンやアリストテレス、ニュートンやアインシュタインの力が強大で抗いがたいものであるという事実を改めて実感としてかみしめている。
彼はまた、「言語人」を養育するのではなく、子どもの手が自然にものを作ることである「手工」の意義を強調している。その試みに力を貸し、少なくともその機会を与えることの重要性を論じている。これこそが教育の真髄であろうという気がする。
2011-10-20
2011-02-13
考えていることの重複
最近6ヶ月くらいの間に読んだ本はひとつの大きなテーマに沿った一連の本でどこかでそれぞれの書物を読んだ感想と抽出した問題を書き上げておかないと忘れるなと思っている。それぞれの著者同士は一部だけが互いに知っているようだが、どちらかというとそれ以外は互いを意識することなく書いているので一見すると関連が無いようにも思えるが私には同じテーマを追っているように思える。
それらの本とは読んだ順に①形の生物学(本田久夫)②歴史としての生命(村瀬雅俊)③構造主義生物学とは何か(池田清彦)④構造主義生物学(柴谷篤弘)⑤創造的進化(アンリ・ベルグソン)であるが、著作順は古い順に⑤1907年③1988年④1999年②2000年①2010年の順である。問題の著作の存在に気がついて遡っているうちに最も古いベルグソンの著作にたどり着いたという気がする。
あらためて私の関心事の中心的な部分をベルグソンが占めていることに気がついた。特にこの著作(創造的進化)の強調している人類の持つ認識装置にかけられた抗いがたいバイアスについての議論が私には非常に魅力的だ。これらはもう少し遡れば西洋理性の源泉であるプラトンやアリストテレスにたどり着くのだろうが、1000年以上人類の気づかなかったことを指摘しているように思える。根気と冷静さが一段と求められる話ではあるが、この思潮を大切に育てていくと人類の抱えている問題の多くの部分は解決していくように感じている。具体的な感想は順次ここに記述していこうと思っている。
それらの本とは読んだ順に①形の生物学(本田久夫)②歴史としての生命(村瀬雅俊)③構造主義生物学とは何か(池田清彦)④構造主義生物学(柴谷篤弘)⑤創造的進化(アンリ・ベルグソン)であるが、著作順は古い順に⑤1907年③1988年④1999年②2000年①2010年の順である。問題の著作の存在に気がついて遡っているうちに最も古いベルグソンの著作にたどり着いたという気がする。
あらためて私の関心事の中心的な部分をベルグソンが占めていることに気がついた。特にこの著作(創造的進化)の強調している人類の持つ認識装置にかけられた抗いがたいバイアスについての議論が私には非常に魅力的だ。これらはもう少し遡れば西洋理性の源泉であるプラトンやアリストテレスにたどり着くのだろうが、1000年以上人類の気づかなかったことを指摘しているように思える。根気と冷静さが一段と求められる話ではあるが、この思潮を大切に育てていくと人類の抱えている問題の多くの部分は解決していくように感じている。具体的な感想は順次ここに記述していこうと思っている。
2011-02-03
他者とのコミュニケーション、記録
人類の記録は文字が発明されるまで、身体性をともなった身振り、踊り、うた、祈りなどを経て主として口頭での伝承、芸能などへと集約されていったと思われる。この間は音声が優位にあり、呼びかけの要素が強かったに違いない。併せて視覚が他者の存在を主体的に観察する手段として発達してきたと想像される。
そして、ひもや石による文字の発明は記憶を受動的無意識の世界から意識化し、一気に視覚優位の現在に至る人類の文化が花開いたのだろう。紙の発明や印刷術がこの傾向を強化し、現在に至る文明の骨格にある知識の共有化が図られてきた。
20世紀に入り、ノイマンの発案による技術は人類の認識装置の奥底にある限界をあぶり出し、デジタル革命をもたらした。人類は聴覚にしろ視覚にしろ、生命の持つ連続した感覚の特性を獲得できないという限界をいろいろな生得的な道具で、これまでだまして認識に使用してきたが、ここへきてこのデジタル化で限界が露呈してきた。
人類が動物として、生命として獲得できる情報の技術はおそらく言葉や文字(書かれたもの)が最後でこれがすべてだろう。音楽や絵画はこれを補完する本来あるべき他者とのコミュニケーションの重要な突破口なのだろうが、言語を超えるものは見つかっていないし生物としての人類は新しい手段を獲得できないだろう。
文学の可能性はセマンティックな分野でひとつの人類だけに残された可能性かもしれないが、あまり期待できない気がする。あとは自然の力による人類という怪物の進化だけがたよりだが、想像がつかない。
「昭和史の一級史料を読む(保坂正康、広瀬順皓)」を読んでいて、口頭伝承の重要性を再認識するとともに、民俗学、考古学を超える手法の見当たらない現状に人類の限界を感じた。これからのデジタル時代はおそらく電子化された情報も胡散霧消して後の世代には何も残らないだろう。今回のエジプトのインターネット切断が数日でほぼ完全に実施された現実を前にして、統合された電子社会の真の恐ろしさを肌で感じた。
そして、ひもや石による文字の発明は記憶を受動的無意識の世界から意識化し、一気に視覚優位の現在に至る人類の文化が花開いたのだろう。紙の発明や印刷術がこの傾向を強化し、現在に至る文明の骨格にある知識の共有化が図られてきた。
20世紀に入り、ノイマンの発案による技術は人類の認識装置の奥底にある限界をあぶり出し、デジタル革命をもたらした。人類は聴覚にしろ視覚にしろ、生命の持つ連続した感覚の特性を獲得できないという限界をいろいろな生得的な道具で、これまでだまして認識に使用してきたが、ここへきてこのデジタル化で限界が露呈してきた。
人類が動物として、生命として獲得できる情報の技術はおそらく言葉や文字(書かれたもの)が最後でこれがすべてだろう。音楽や絵画はこれを補完する本来あるべき他者とのコミュニケーションの重要な突破口なのだろうが、言語を超えるものは見つかっていないし生物としての人類は新しい手段を獲得できないだろう。
文学の可能性はセマンティックな分野でひとつの人類だけに残された可能性かもしれないが、あまり期待できない気がする。あとは自然の力による人類という怪物の進化だけがたよりだが、想像がつかない。
「昭和史の一級史料を読む(保坂正康、広瀬順皓)」を読んでいて、口頭伝承の重要性を再認識するとともに、民俗学、考古学を超える手法の見当たらない現状に人類の限界を感じた。これからのデジタル時代はおそらく電子化された情報も胡散霧消して後の世代には何も残らないだろう。今回のエジプトのインターネット切断が数日でほぼ完全に実施された現実を前にして、統合された電子社会の真の恐ろしさを肌で感じた。
登録:
投稿 (Atom)